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 第19回:ヴォーカルに至る道

 もう皆さんご存知ではあると思うが、私はアマチュアバンドのヴォーカルである。バンドマンたる者、音楽には一家言ある人がほとんどであろうが、私と来たらこれがまた節操が無いものでなんでもありなのである。しかも、現在やっているバンドはハードロックが中心なのに、ハードロック自体聴きはじめたのがこれまた最近というフトドキ者である(笑)ちう訳で私ってどんな嗜好でここまでやってきたのか整理してみたいと思う。

 初めて買ったレコードは何だったろう…アニメ系を除くとピンクレディーの「SOS」だったと思う。恐らく小学校2〜3年くらいだったか?当時ピンクレディーは大ブレイク中だったし、小学校でも話題もちきりであったため、私も御多分にもれず、という感じだった訳だ。しかしピンクレディーは個人的にもツボにハマっていて、その後も少ない小遣いを工面してドーナツ盤を買っていた。その他、小学校の時に良く聴いていたのは山口百恵とか、西条秀樹とか、ごく一般的なアーティストのものが中心であった。ああ、そう言えば最近コーヒーのCMでやってるクリスタルキングの「大都会」もこの頃だな。

 さて、音楽の授業とかは別として人前で歌ったのは小学校4年の時。日帰りの修学旅行みたいなののバスの中であった。歌は「俺は田舎のプレスリー」(笑)。結構受けたのを覚えている…(^^;)

 中学校に入るや否や大ハマリしたバンドがある。Y.M.Oである。一般的には「ライディーン」が大ヒットしたのでそれから聴きはじめた人は多いと思うが、私の場合はゲーマーだったせいもあり、ファーストアルバムに入っていた「コンピュータゲーム・サーカスのテーマ」「コンピュータゲーム・インベーダーのテーマ」から入った変わり者である(笑)。その後も「テクノポリス」「君に胸キュン」などといったメジャーナンバーにはあまりハマらず、「シムーン」「インソムニア」「キャスタリア」「MASS」「ジ・エンド・オブ・エイジャ」といったものにハマりまくる。

 時を同じくして、音楽ではなくゲームに関連するのだが人前で一芸を披露することになった。インベーダーの音の口まねである。これは結構やってる人は多かったと思うがどうも私の奴はかなり似ていたらしく、なんと全校集会でやる羽目になったのだ(笑)。会場は1000人で埋め尽くされ、たった一人ステージに立つ私。うーむ、今のライブ活動でこれくらい動員できたらなあ(爆)。ちなみに最初は会場驚きとも呆れとも分からないざわめきで最終的にはオオウケでありほっとしたのだった。

 ここで現在私がヴォーカルの片手間にやっている「EWI」という管楽器をやるに至る伏線があった。「ジ・エンド・オブ・エイジャ」の主旋律を縦笛で吹いていたのである(笑)。学校から帰るなりいつもやっていたため、この曲に関しては今でもEWIである程度吹ける。ちなみにSOLDOUT5人中4人はYMOフリークであったようなのでいつか披露してみたいものである。

 あと、ここで私の音楽人生においてかなり大きな影響を与えるアーティストに出会う。中島みゆきである。出会いはラジオの電話リクエストで「悪女」を聴いてからと言う、ごく一般的なものであったが、その後他の曲をいろいろ聴いてこの人の曲のセンス、歌いまわしのカッコよさに引かれていくのである。だから一つだけ言っときたい。みゆきの曲は暗いばかりではない!!「36.5℃」と言うアルバムを聴いて欲しい!!あれは「ロック」だ!!そういう訳で私の歌い回しにはたいがい「みゆき節」が入っていたりするのだ(笑)

 同時にこの頃、クラシックの有名な部分をメドレーにした「フックトオンクラシックス」というのにハマり、これをきっかけにしてクラシックを聴きまくるようになる。また同時に、パソコンで3和音程度なら演奏できるものが出始めたため、電器店の方隅で「パッヘルベルのカノン」の楽譜を入力している少年が日曜たんびに確認されるようになる訳である(笑)。ちなみにカノンの楽譜はドイツから取り寄せたものだったり、カノンがらみのレコード10数枚を買いあさるほどのカノンマニアになっていくのであった。

 クラシックの影響は高校時代をも制圧し、高校の3年間は殆どクラシック漬と言う、考えられないような事態を招くのであった(笑)。ただ、そうした中にあって、YMOに端を発したシンセサイザー音楽好きがミックスされ、クラシックをシンセでアレンジしたものを多く聴いてもいた。「スイッチトオンバッハ」「デジタル四季」や冨田勲のシリーズなどは一通り聴いたりした。

 高校の時はバンドなどやろうとも思っていなかった訳だが、実はこの時同じ高校で文化祭などで演奏していた者の中に若衆のリーダーとベーシストがいたりしたのも全然知らなかった訳だ(笑)ちなみに私が高2の時は1年に前述の若衆メンバー、3年に私の入っている野球チーム「アスレチックス」のほとんどのメンバーがいたりしたのだが、当時は全く知らないもの同士。今になってみれば何だか不思議な感じである。

 クラシックばかり聴いていたとはいえ、ロックに多少なりとも触れることになったのもこの頃だ。ビートルズである。きっかけはとあるアニメのBGMでシンセアレンジとして使われていたのだが、ビートルズマニアの友人から元曲のテープをもらったりして聴いていた。ちなみに「マジカルミステリーツアー」と言うアルバムである。同時にビートルズのメジャーナンバーである「イェスタデイ」「ミッシェル」なども貰っていた。ヴォーカルの伏線は実はここに端を発しており、家でこっそりこれらのナンバーを歌っていたのである。一度親戚のおばさんにこれを聴かれて顔の温度が急上昇したのを覚えている(笑)

 その他にも当時結構ハマっていたものとして「戸川純」「谷山浩子」などもあった。これは当時一番交流のあったアマ無線の仲間の影響が大きかった。今でもこれらのナンバーを受け狙いでカラオケでやることがあるが、聴いた方は大概目が点になっている(笑)

 さて、社会人になった。当然のみの席などで歌う機会は増えていくであろう…しかし!ことごとく歌うことを避ける私がそこにいた。今からするとこれまた考えられないことである(笑)。当時の私はヒジョーにシャイで(爆)、恥ずかしさの方が先に立っていたのである。しかし半ば強制的に歌わされる場面も多々あり、仕方ないので中島みゆきの「わかれうた」とか歌って顰蹙を買ったりしていた(笑)。しかもこの頃は高音域は裏声でやっていたため聴くに耐えないものだったと思われる(爆)。一応「まともな」部類に入るであろうアルフィーの「星空のディスタンス」も一度だけ歌ったが当然裏声(^^;)。その他にも社内旅行のバスで歌った石井明美の「cha-cha-cha」などはいまだに語り種である(爆)。とにかく今の歌い方とは全然違う、超ヘボまった歌い方であったことは間違い無い(って、今も大したこたないんだけどね^^;)。

 ヴォーカルではないが、ウィンドシンセに触れたのも社会人になって数年後の89年頃こと。F-1の影響で聴きはじめたT-SQUAREのナンバーを演奏してみたくなった私はとりあえずウィンドシンセの中でも最も安かったカシオ「デジタルホーン」と言うものを購入。しばらくは満足していたのだが、どうも操作性や表現力にかけるので後輩からYAMAHA「WX11」というある程度きちんとしたものを売ってもらった(数年後、AKAI「EWI3020」に買い換える)。そして後輩とリハバンドを組んで時々練習していた。私にとってはじめてのバンド活動がこれである。しかしまだ人前で「歌」など…と言う気持ちに変わりはなかった。

 そんな私に変革の時が訪れる。リハバンドも諸事情でできなくなったある時、高校時代の友人2名が私をカラオケに誘ったのだ。割と気の許せる奴等だったので今まで行ったことも無かったカラオケボックスに足を運んだ。時間はたっぷりあったのでいろいろ歌ってみた訳だが、当時会社の同僚の影響で聴きはじめた爆風スランプのナンバーをいくつか歌った時に「結構高い声出るじゃん」と言われたのが現在の始まりかもしれない。この一言で今まであれほど人前で歌うのがいやだった自分のたがが外れた(な、なんて単純な奴だ(爆))。そして91年春、地元の情報誌に出ていたバンドメンバーの公募に応募。YMO、ビートルズ、T-SQUAREのコピーをやりたい、と言うバンドで、私にとってはいわばリハバンドの延長になりそうなものだったがとりあえず「やりたいジャンル」だったので参加した。しかし、結果的には盛り上がらず、結局2回程度練習をして終わり。ちなみにこの時同時に応募してきたキーボーディストが後のSOLDOUTキーボードに就任する雛クン。世の中は狭い(笑)

 同年夏、同情報誌に今度はハードロックのオリジナルを中心に活動したいのでヴォーカル募集、と言う公募が載り、それに応募する。今度は空席1に対し数名が応募したようで、連絡された集合場所である下松駅北口には自分の歌を吹き込んだオーディションテープを持ちよった若者がたむろしていた。ちなみに私が吹き込んだ歌はXの「ウィークエンド」。ハイトーンで有名なXのナンバーの中でも「ラク」な方の奴である。それでもいまだから言えるが、あのテープは一発どりではなく、MTRで数回に分けて取ったものをMIXしたのであった。今更ながら、ごめんなさい〜〜m(__)m>若衆リーダー。そしてその甲斐あって(笑)、同年9月、私の「若衆」ヴォーカル就任が決定する。翌年初め、ファーストライブを敢行。練習ではある程度声は出てはいたのだが、極度の緊張からかボロボロ…その後も数回ライブをするも、満足出来たことはあまりなかった。当時のビデオが残ってはいるが、封印する必要がありそうだ(笑)

 この頃の私の喉の調子と来たら凄く不安定で、昨日は上のEまで楽勝で出たと思ったら、今日はその下のBもでない、と言った感じ。まあ、今でも悪い時はそうなんだけど、ごまかし方とか覚えてきたので(^^;)

 この頃になってはじめて、ロックと言うものをまともに聴きはじめる。とは言っても若衆リーダーの影響の範疇を抜け出せないのだが。

 若衆はとても理想的なバンドであったが、大きな問題をはらむことになる。リーダーの仕事がメチャ多忙になるのだ。出張出張でライブどころか練習もままならない。94年9月を最後にライブからは遠ざかることになる(但し98年8月、ベーシストをSOLDOUTベーシストのサポートで4年ぶりのライブ敢行!)。

 若衆での心に残るライブは、光市のお祭りで演奏した奴だろう。調子もそこそこ良く、客の乗りも良かったし。ステージ終了後中学生からサインねだられたし(笑)

 ここですたれてしまう訳にはいかない。と言う訳で若衆ドラムスが会社で組んでいるバンドからギターとベースを連れてきた。96年末、ここにSOLDOUTが誕生した訳である。結成後一年弱でファーストライブを敢行、会場となったジャックブルースのマスターから誘いがかかり、マスター率いるPOWERSのヴォーカルにも就任。現在に至る訳である。

 ううむ、しかし振り返ってみるとやっぱり一貫性の無い人間だな…私って(^^;)

 98.10.5初版

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